2017年2月14日火曜日

東大生が変わり者?学力偏重、受験勉強の弊害とは。

テレビで東大生が出演して
変わりもの扱いされている番組があります。

必死に勉強して東大に入った人たち
全員がそうであるわけはなく、
極々一部の人を見て、
東大は変わり者が多いと判断するのは
安易すぎるもの。

が、そのようにとらえられてしまう人物が
一流大学ほど多くいる
というのも事実としてあるようです。

私は塾や公立小学校で教師をしてきました。

勉強を教えることが仕事でもあります。
受験勉強でストレスをため込んで
友達に冷たくあたる子を多くみてきました。

教育する上で忘れたくなかったことが
勉強「も」できる人を育てるという意識です。

勉強はあくまで人間の能力を測る
ごくわずかな部分でしかないのです。

しかし、世の中を見渡してみると
学力というものの価値がずいぶんと高くなりすぎている。
そんな学力バブルという感があります。

子どもを育てる際の基準がわからなくなり、
手っ取り早くわかりやすい学力という物差し
多くの親が手にしているように感じます。

学力が高まることは素晴らしいことですが、
学力というものが
単なる受験テクニックとなってしまっていたら
危険なことです。

難関受験を目指している子どもたちは
本当に多くの時間を勉強に費やします。

趣味の時間、遊びの時間、家族と過ごす時間を
費やしてまで難関校合格を目指します。

しかし、難関校に何のために行くのか?
ということが希薄なことが多いのです。

就職が有利。
そんな簡単な話だけで選んでよいのでしょうか。

確かに就職が有利かもしれませんが、
そのためだけに
あらゆる犠牲を払う価値があるのか?
ということを問う必要があります。

人間の幸せとは
良い企業に就職するだけではないはずです。

自分の才能を生かして
そのことでお金持ちになれなくても
人並みに生活できることを
幸せと感じる人がいてもいいはずです。

お笑い芸人を目指して
苦労をしている人が幸せではないか
といえばそうではないはずです。

人は自分の好きなことや
才能を磨いて開花させることも
経済的な側面以上に幸せを感じるものなんです。

勉強に才能がある子もいます。
専門家を目指す人は大いに勉強すればよいです。

でも、そうでない子も多くいます。

にも関わらず、
親が人間の価値観を学力に偏ってもっていると
子どもの才能を見つめることなく
難関校受験のための塾に通わせてしまうことがあります。

日曜まで・・・

学力偏重


従順な子ほど何も言わずに親の意向に従います。
が、元来従順ではない場合は
ストレスを内側にためて、
発散先を探すことになります。

それが友達であれ。

自分が何が好きか?
そんなこともわからず大人になる子は多くいます。
自分が好きなことを見つめる時間すらなく
忙しく受験勉強に費やして生活してきたためです。

極一部のテレビ番組で出る
学力は高いけど社会適応力に欠けてしまうような子は
もともとそのような子だったのではなく、
人と接する機会を無くすほど
勉強ばかりに時間を費やしてきてしまった可能性も
否定はできないと思います。

勉強で手に入れる知識、受験テクニック
あくまで1つのツールでしかありません。

そのツールを使う人間を育てないと
ツールは無意味なものになるばかりか
下手をすると他人を傷つける道具にもなってしまうのです。

高学歴の政治家が不祥事を働くなんてことは
頻繁に耳にします。

もちろん、多くの犯罪は
学力が無い人たちが起こすということも事実です。

なので勉強が必要か必要ではないか
の二元論ではなく、
勉強は適度に必要だというくらいに
肩の力を抜いた方が良いと思います。

ダイナマイトを作った人は頭が良いです。
しかし、違う頭の良さをもった人が
それを戦争用に改良するわけです。

原子力もそうです。

受験勉強も大切です。
しかし、その前に人間が育っているか
子の心を育てるために
親は何を行っているか。
その部分をしっかり見つめることが大切です。

その部分から目を逸らし、
受験塾に丸投げで良いのでしょうか。

我が子をしっかり見つめることは
その子の才能を見つめることにもつながり、
高学歴以外の生き方も考えるきっかけになるはずです。


東大生が変わり者が多いというテレビ番組は
行き過ぎてはいますが、
大切なことも教えてくれます。

動物と人間の違いは
ただたんに子を産むのではなく
産んだ後に
人間性を高める「教育」にあるはずです。

親として我が子が大人になるために
何を大切にして教育するべきなのか
しっかり考えることが大切です。

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