幸せにはいろいろな形があって良い。
日本は無宗教だからこそ、
より一層、その幸せの定義は多様性があって良いはず。
でも、多様性があると人間は不安になり、
不安だからこそ正解を求める性質があります。
不安だからこそ正解を求める性質があります。
幸せなんて人によって違うものですが、
多様な生き方ができる現代では、
幸せの定義を固定化することで
不安を安心に変えようとする人たちもいます。
誰かと同じだということで安心感を手に入れるのです。
その固定化した考え方として
「良い大学に行く」ということがあります。
多様な生き方ができる現代では、
幸せの定義を固定化することで
不安を安心に変えようとする人たちもいます。
誰かと同じだということで安心感を手に入れるのです。
その固定化した考え方として
「良い大学に行く」ということがあります。
その幸せの定義はとってもわかりやすく、
自分たちの周りにも溢れています。
だからこそ追い求めたくなってくる安心感ある定義なんですよね。
だからこそ追い求めたくなってくる安心感ある定義なんですよね。
ただ、その定義を子供が自分で追い求めるのは自由ですが、
親が子供より躍起になってわが子に追い求めさせるのは危険です。
良い大学に行くことが幸せという固定観念が正しいなら、
日本では東大に行くことが一番幸せになるはずです。
東大に行かない限り
最高な幸せではないということです。
最高な幸せではないということです。
早稲田、慶応でも良いのでしょうが、
近くに東大出身がいようものなら
揺らいでしまう幸せの定義です。
実は東大に行ったとしても
世界ランキングは50位以下です。
ということは、東大に入って幸せかといえば、
さらに上から見れば幸せではないということになります。
幸せとは良い大学に行くことだとう固定観念を変えない限り、
ハーバード、東大以外は、
子育てはずっと失敗ということいなり兼ねません。
さらに上から見れば幸せではないということになります。
幸せとは良い大学に行くことだとう固定観念を変えない限り、
ハーバード、東大以外は、
子育てはずっと失敗ということいなり兼ねません。
ちょっと大げさに書きましたが、
高学歴が幸せとするなら、
結局は誰かと比べる限りもろい幸せになってしまうのです。
高学歴が幸せとするなら、
結局は誰かと比べる限りもろい幸せになってしまうのです。
で、結局そのような価値観で子供を育てて来た親も、
育てられた子供も、
「東大生は仕事ができない」
「東大生は変人が多い」
育てられた子供も、
「東大生は仕事ができない」
「東大生は変人が多い」
なんて重箱の隅をつつくようないちゃもんをつけて
ちっちゃな優越感をつくりあげて自らの幸せを保とうとしがちです。
他者との比較の幸せでは上には上がいて
限りない葛藤の日々が待っています。
限りない葛藤の日々が待っています。
修羅の道です。
そう考えてみると、
幸せの定義については、
幸せの定義については、
もっと根源的なところを見直してみる必要があると思います。
例えば、
いつも笑顔でその子がいるだけで
教室がパッと明るくなるような子がいたとします。
でも学力はパッとしなかったとします。
親であるあなたが、
これではいけない!と思うのか。
わが子の良さを認めることができるのか。
確かに高学歴は素晴らしいことです。
でも、社会が作り上げた、一つの指標でしかない
ということも覚えておく必要があります。
外部が作り上げた指標ではなく、
その子の資質そのものが
でも、社会が作り上げた、一つの指標でしかない
ということも覚えておく必要があります。
外部が作り上げた指標ではなく、
その子の資質そのものが
その子の人生にとっては大切なことなのではないでしょうか?
わが子はすでに幸せになるべき要素を
十分にもって生まれてきて、
今を生きているのです。
今を生きているのです。
学力をもっと、もっともっと偏差値を高く、
もっと高学歴に・・・
足りない、もっともっと・・・
そのような考え方の先に待っているのは修羅の道です。
子どもも親も苦しむ道が待っている可能性が高いです。
一生見えざる敵と闘い続けなければいけません。
学歴も大切です。
でも、そればかりを追い求めていたら、
大切なわが子にとっての幸せの道を見失ってしまいます。
今の我が子の良い部分を認めてあげる。
わが子にとっての幸せとは何かを
子供と一緒にゆっくり考えるつもりで子育てをする。
周囲の子供が受験競争をしていても、
必要だと思わなければ巻き込まれる必要はありません。
幸せの定義を固定化する必要はありません。
もっと自由に「わが子にとっての幸せとは何か?」
を考えてほしいです。
肩の力を少し抜いて子育てをしてほしいなって思います。
それではまた☆